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私にワルイコトを教えたのは政略結婚の旦那様でした
私にワルイコトを教えたのは政略結婚の旦那様でした
Author: 霧内杳

第一章 初めてのワルイコト 1

Author: 霧内杳
last update Last Updated: 2025-11-03 13:13:19

私に〝ワルイコト〟を教えたのは、初対面の知らない男性でした。

……はぁっ」

池の鯉を見ながら憂鬱なため息をついてしまい、苦笑いする。

今日は私のお見合いで、老舗ホテルに来ていた。

「うん。

まあ、わかってたし」

私の独り言を知らず、鯉はのんきに泳いでいて羨ましくなった。

私の父は石油取り引きを生業にしている、『アッシュ』という大企業を経営している。

私はいわゆる、ご令嬢というヤツだ。

そしてお見合いの相手は旧財閥『三ツ星みつぼし』のご令息。

大財閥だったが故に戦後に解体されてしまったが、それでも現当主は各企業だった『三ツ星造船みつぼしぞうせん』の社長をしている。

御曹司もグループの海運業会社で社長をしているという話だ。

といってもここまでは伝え聞いて知っている情報で、私自身は彼についてなにも知らない。

その名前すら、だ。

お見合いが決まり、釣書や写真を両親は見せようとしたが、すべて拒否した。

だってそうでしょう?

要するにこれは政略結婚で、お見合いをする以前にもう結婚は決まっているのだ。

もし好みから激しく違う男性だったらお見合いなんて逃げ出したくなっちゃうかもしれないし、だったら相手の顔なんて知らないほうがいい。

もっとも、気が重くて時間になるまで、外で空気を吸わせてもらっている状態だが。

「おい。

その池に飛び込んでも、死ねないと思うぞ」

……は?」

唐突に男の声が聞こえ、そちらを見る。

そこには上部が太いメタルハーフリム眼鏡の下で眉を寄せた、スーツ姿の若い男性が立っていた。

「えっと……。

さすがに、この池に飛び込もうなんて思いませんが」

戸惑いながら彼に答える。

しかし、そう心配されるほど自分が思い悩んだ顔をしていた自覚があった。

「そうか。

なら、いいが」

彼の手がゆっくりと上がり、その行方を追う。

それは私の頭を、軽くぽんぽんと叩いた。

「あの……」

「ああ、すまん」

私の声で自分の行為に気づいたのか、彼は確かめるように軽くその手を見たあと、引っ込めた。

「俺にはちょうど、君くらいの妹がいてな。

それで、つい」

「はぁ……」

照れくさそうに彼は人差し指でぽりぽりと頬を掻いている。

それはよき兄なんだろうなと想像させた。

「それで。

なにをそんなに、思い詰めてるんだ?

俺でよかったら話を聞いてやるぞ」

真っ直ぐに彼が私を見下ろす。

レンズの奥の目はとても誠実そうに見えた。

それで少し、口が緩んだんだと思う。

「今日、これからお見合い、で」

「なんだ、見合いが嫌なのか」

彼の問いにううんと首を振った。

「別にお見合いに不満なんてありません。

お見合いして、相手の方と結婚するのが私の使命ですし」

この言葉に嘘偽りはない。

裕福な家の娘として生まれ、なに不自由なく育ててもらった。

その代わり、親の命じる相手と結婚しなければならないのは当たり前だ。

それに同じように結婚した両親は、燃えるような恋ではないが信頼を築きあげ、互いに愛しあっている。

私もきっとそうなるのだろうと、漠然と思っていた。

だから今日、初めて会う相手との結婚に不満はない。

「じゃあ、なにが不満なんだ?」

「その。

笑わないで聞いてもらえますか?」

不安で、彼を上目でうかがう。

「ああ」

しかし真面目に彼が頷き、少し安心して口を開いた。

「悪いことをしてみたかったな、って」

じっと彼を見上げ、なにが返ってくるか待つ。

「悪いことって、どんな?」

「その。

ゲームセンターとかカラオケとかに行ったりだとか。

ファストフードのお店でハンバーガーを食べたり、露天でクレープを買ったりだとか」

幼稚園からこの春に卒業した大学院まで、常に運転手付きの車で送り迎えだった。

当然、帰りに買い食いとかしたことがない。

それに良家の子女として恥ずかしい行動は禁止されていたので、今時の若い子のするような遊びの経験もなかった。

要するに今まで、籠の中という限られた世界の中で、なに不自由なく生活してきたのだ。

結婚しても、今までの家族の籠から新しい嫁ぎ先の籠へと移動するだけで、結局籠の中なのは変わらない。

それはそれで仕方ないと諦めがついていたが、それでも一度でいいから両親から眉をひそめられるような行為を、外の世界を体験してみたかった。

「あとは、素敵な殿方と恋をしてみたかった、……です」

言い切ったあと、恥ずかしくて頬が熱くなり俯いた。

彼からの返事はない。

こんなことがしたいだなんて、呆れているかバカにしているかなのかと思ったものの。

「それ。

俺が叶えてやろうか」

私の顔をのぞき込み、にかっと人なつっこく彼が笑う。

「えっと。

カラオケにゲーセンに、ハンバーガーとクレープだっけ?早速行かないと今日中じゃ終わらないな」

「えっ、あの」

もうその気なのか、彼は私の手を引っ張ってきた。

「でも、今からお見合いですし……」

さっきからバッグの中で携帯が震えている。

きっとそろそろ、父に命じられて誰か私を探しに来るだろう。

「見合いをサボるって、これ以上、悪いことはないと思うが?」

右の口端をつり上げて彼がにやりと笑う。

実に悪いその顔を見て、急に世界が切り替わった気がした。

「そう、ですね。

お見合いをサボるとか、悪い子のすることです」

差し出される手に、自分の手をのせる。

どうして今まで私は外の世界に出たいと願うばかりで、その一歩を踏み出さなかったのだろう。

別に本当に、籠に閉じ込められているわけでもないのに。

「じゃあ、行くぞ」

「はい」

ぐいっと彼が手を引っ張り、私は外の世界へと一歩、踏み出した。

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